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キングレコードから歌手デビュー

 
1938年東京本郷の生まれ。暁星学園卒業。
1960年代の半ば、銀座の電通通りにある、ホテル日航ミュージックサロンでシャンソン歌手としてデビュー。石井好子の石井音楽事務所の専属となる。
1965年、キング・レコードのオーディションに合格、専属歌手となりレコードを発売しだした。「消え去りし友」「愛は燃えている」「君は我が命」「夜のメロディー」など。当時大手レコード会社と専属契約を結んでいるかいないかはとても重要で、契約無しの歌手とは、大リーグとマイナーリーグぐらい、格付けの差があった。
銀座のホテル日航ミュージックサロン、銀巴里などのライブハウスや、パリ祭のツアーの司会や歌、テレビ、ラジオ、日本中にあった音楽鑑賞団体への出演など、シャンソンの中心的歌手として長い間活躍していた。そのおかげで、1964年に東京オリンピックが開催される前の年、日本のシャンソン事情の取材のため銀巴里に訪れたフランスの国営TV局から取材を受け、歌う姿をフランスでも紹介されるという栄誉までいただけた。

1965年にキングレコードからデビュー(デビュー盤と、それに続く2枚目のシングル盤)

来日アーティストのコンサートで司会者として活躍

 
1970年頃より、来日する多くの偉大なアーティストのコンサートで司会者として声をかけていただけるようになる。開演のブザーとともに観客を音楽の世界に導き引き、鑑賞の手助けとなるようなエピソードを語り、アーティストからのメッセージを日本語に訳して伝えるといったことはもちろんのこと、時に起こるステージ・アクシデントにもその場で対応しなければならない。おかげで判断力と適応力は鍛えられた。
加えて、異国の地に来ている日本語をしゃべれない、しかも一癖も二癖もある芸術家たち三十数人と1ヶ月以上も生活や行動をともにするわけだから、メンバーと興行主側との調整事から、日常的な問題の対応に至るまで気を回していく必要があった。でも、そういったことの積み重ねがアーティストたちとの信頼関係を強固なものとしてくれたし、日本人とは違う彼らの生き方や考え方に深く接することができたことで、多くのことを学ばせてもらった。
 
<司会に携わった、主なオーケストラ、インストメンタリスト>
 ポール・モーリア −「恋はみずいろ」でイージー・リスニングに革命を起こした…
 レイモン・ルフェーヴル − 日本で一番ヒットした洋楽「シバの女王」でおなじみ…
 リチャード・クレイダーマン −「渚のアデリーヌ」で世界中に旋風を巻き起こした…
 ミッシェル・ルグラン − 映画音楽からジャズまでこなす多才な音楽家…
 フランク・プゥルセル − TVドラマ「光る海」で使われた「アドロ」で知られる、ストリングスの魔術師…
 ピエール・ポルト − TV番組「金曜ロードショー」のテーマ曲で知られる…
 カラベリ − フランク・シナトラに「愛をもう一度」を提供したメロディ・メーカー…
 ジョルジュ・ジューバン − TV番組のテーマ曲「夜は恋人」で日本でも知られる…
 クロード・チアリ −「夜霧のしのび逢い」の大ヒットで一躍その名を馳せた…
 ニコラ・デ・アンジェリス − クレーダーマンとともに紹介されたギタリスト…
 デューク・エリントン −「A列車で行こう」でおなじみ、ジャズ界の巨匠…
 アルフレッド・ハウゼ −「碧空」など、コンチネンタル・タンゴの第一人者…
    などなど… 
 
<司会に携わった、主な歌手>
 シャルル・トレネ −「ラ・メール」など、シャンソンの歴史に残る名作を残した…
 アダモ −「雪が降る」「ろくでなし」など、日本人歌手も多く取り上げる名作を生んだ…
 エンリコ・マシアス − スペイン系の歌手で、日本では「恋心」で人気となった…
 イベット・ジロー −「あじさい娘」や、トレネが作った「詩人の魂」をヒットさせた…
 ジャックリーヌ・フランソア -「パリのお嬢さん」を歌って人気を勝ち取った…
 ジョセフィン・ベーカー − フランスで活躍したアメリカのジャズ・シンガー…
 ジャン・サブロン − フランスで初めてマイクを使い、ささやくように歌った…
 マルセル・アモン − ブルー・ブラン・ブロンで大ヒット ファンテジスト
 ダニエル・ヴィダル −  オー・シャンゼリゼが大ヒット…
 ウド・ユルゲンス − オーストリアの歌手でペドロ&カプリシャス「別れの朝」原作者…
 トリオ・ロス・パラガヨス -「ククルクク・パロマ」で知られるパラグアイのバンド…
 ミルバ −「カンツォーネ」「愛遥かに」など、イタリア・カンツォーネ界の巨匠…
 クラウディオ・ビルラ − 「愛のわかれ」で有名な、サン・レモ音楽祭の常連…
 ブレンダ・リー − 米国で「愛の賛歌」をヒットさせたカントリー・ミュージックのスター…
   などなど…
  
 これらのアーティストはほとんど日本中を回るツアーの仕事で、一ヶ月から二ヶ月に渡り、アーテストと共に我が青春を謳歌しました。
コンサートの司会に限らず、ホテル等で開催されるパーティーや結婚式の司会にも携わるようになり、たとえば、こんなイベントでの司会者も任せていただいた。
 - 日本航空 DC8リタイヤー記念パーティー
 - 日本航空 東京ーマドリッド就航記念パーティー
 - 日本在住フランス菓子職人及び料理人団体アミカル25周年記念パーティー
 - カナダ日本、国交関係樹立70周年記念パーティー
 - シェーヌ・デ・ロティスール世界肉料理料理人パーティー(世界のグルメたちの会)
   などなど…
 
ほかには、初来日のパトリシア・カースの通訳舞台監督を務めるなど、裏方的な仕事にも多数関わらせていただいた。

多くの著名アーティストとの共演が、私を育ててくれた。

シャンソンへの回帰

 
しばらく歌手活動を休んでいたが、1989年のレイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラの日本ツアーが始まる2ヶ月くらい前に、ルフェーヴルからこんな提案があった。「第一部の最後にフランス革命200年を記念してフランスの名曲メドレーをやるつもりなんだけど、その演奏前に1曲歌ったらどうだ。ハジメはそもそも歌手なんだろう。」
最初は「何言ってるんだろう」と思った。なにせ相手はフランスでテレビ放送が始まってから20年もの間、毎週日曜日のゴールデン・タイムに生放送の音楽番組を持っていて、そこで全てのフランス人歌手と共演してきたというフランス音楽界のドンみたいな人物だ。そんなフランス人歌手たちと同じ経験させてもらえるなんて、恐れ多すぎる。でも、考えてみればフランス・ナンバーワンのオーケストラをバックに歌えるなんて、こんな名誉なことはない。ルフェーヴルが私だけのために渾身のアレンジを施して演奏してくれた「バラ色の人生」を全31公演で歌いきり、司会をしながらフランスの大編成オーケストラで唄った経験のある、数少ない日本人歌手となった。
 
2000年7月にはアメリカと日本で僕のシングルCDが販売された。ペリー・ラマルカ編曲指揮による40人のフルバンドの伴奏で、アズナブールの「愛のために死す」と「人々の言うように」がフランス語でレコーディングされた。3000枚発売され、売り切れた。
中国、上海のラジオ番組でこの歌が紹介され、評判になる。2002年2月。中国で最大のレコード会社により、上記のCDが発売された。
 
この頃、ポール・モーリアが僕ために編曲をしてくれた。編曲といっても、彼がシャルル・アズナブールの為に編曲した大編成 オーケストラのものを、僕のために五人編成にしてキーを変えてくれるのだが、編曲だけではなく、営業で使えそうなカラオケも作ってくれてた。僕がシャンソンに打ち込んでいるのを知り、助けてやろうと思ったらしい。さらにレイモン・ルフェーヴルも、1999年に僕のために書いたグランド・オーケストラのアレンジを五人編成のバンドように書き直してくれた。もちろん全部プレゼントで、パリには足を向けて寝られないと思っている。
 
ポール・モーリアやレイモン・ルフェーヴルとは30年のつき合いで、毎年フランスの夏のバカンスには、費用全額あちら持ちの特待生待遇で一ヶ月以上招待され、見聞を広げており、この状況が二十年も近く続いた。この間、先に書いたような来日したアーティストだけでなく、イヴ・モンタンやミレイ・マティユーといった歌手たちとも食事を重ねるなど交流を深めていった。

2000年にリリースされた、ペリー・ラマルカとの共演盤

そして今は

 
ミニコミ音楽新聞に月一回のペースで、一緒に仕事をしたアーティストのこぼれ話や、フランス滞在中の経験、日々の仕事を通じての話題などエッセイを書いていたが、思わぬ好評で35話ほど連載が続いた。こちらは分量も増え早稲田出版から、2002年2月に出版された。
シャンソン歌手はスパゲティを食わない