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1938年(昭和13年)11月19日

 東京都文京区本本郷で呉服屋を営む家庭に生まれる。本名は「山﨑一(やまざき はじめ)」。4人きょうだいの長男。山﨑の "﨑" は "大" ではなく "立"。
 

小学校時代

 疎開先から移り住んだ下総中山にある小学校に通うことに。疎開先の友達が恋しくなり、ひとりで電車を乗り継いで疎開先だった静岡まで親に内緒で出かけてしまったことがあったほどの自立心と行動力とを持ち合わせていた。その後、母親の強い希望と各方面との調整により、暁星学園小学校に編入学することとなり、高校生まで総武線で飯田橋まで毎日通学することになる。
 

高校生時代

 第一外国語としてフランス語を選択。野球部に所属しボディビルもやっていた。フランス映画を見てフランス語の美しい響きに感激し、さらにシャンソンの歌詞の深い表現に惹かれ、シャンソンのレコードをかける喫茶店に制服姿のまま入り浸ったりするようになる。この頃になると、家に帰らず友人の家で寝泊まりすることも多くなったという。
 当時流行だったのど自慢番組のひとつ「青春ジャズ大学」(文化放送)に友人が勝手に応募し「ラ・セーヌ」を歌い合格。さらに、居候先の友人の父親が勝手に申し込んだ「歌のオリンピック」(日本テレビ:司会は先代の林家三平さん)に出場し1位に。審査員だった石井好子さんから「あなたのフランス語は素晴らしい」と評された。
 出場者はみんな歌のレッスンを受けて綺麗な衣装を身に纏った人ばかりだったので自分はもうダメだと思い、裏口からこっそり帰ろうとしたら係の人に「あなたは残っていなさい」と言われ、仕方なしに終わるまで待っていたら、優勝者として自分の名前が呼ばれたので大変驚いた、とのこと。
 

1962年(昭和37年)[23歳]

 石井好子さんの事務所で来日したフランス人アーティストの通訳などに携わる一方、宇井あきらさんに師事しシャンソンのレッスンを6ヶ月間受け、翌年に銀座にあるホテル日航ミュージック・サロンでシャンソン歌手としてデビュー。
 当時、オーディションではフランシス・ルマルクが歌った「兵隊が戦争に行くとき」、アンドレ・クラヴォー「エルの瞳」の2曲をフランス語で歌うのが常だったという。
 

1963年(昭和38年)[24歳]

 7月14日に日比谷公会堂で開催されたシャンソンの祭典「第3回パリ祭」に出場。ちなみにこの回の出場者は、芦野宏さん、石井好子さん、中原美紗緒さん、深緑夏代さん、山本四郎さん、真木みのるさん、戶川聰さん、石島節子さん、川島弘さん、山崎肇さん、牧裕介さん、神⻑まさみさん の面々。そして、司会は藤村有弘さんだった。第4回の参加は見送ったようだが、1965年の第5回目から1967年の第7回目と参加。以降、80年代前半まで時々参加を続けた模様。
 パリ祭においては来日していたフランスのアーティストが歌う場面で肇さんが通訳を務め、日比谷公会堂以外で全国を回った際は司会も任されていた。また、そういったことから、パリ祭以外でもフランス人アーティストの公演の通訳兼司会者としての仕事も増えてきた。
 銀巴里のオーディションに合格。日本におけるシャンソン事情の取材のため銀巴里に訪れたフランスの国営TV局から取材を受け、歌う姿が丸山(美輪)明宏さんとともにフランスで紹介される。(美輪明宏さんが「ヨイトマケの歌」をヒットさせたのは、この翌年)
 

1965年(昭和39年)[25歳]

 ミシェル・ルグランが音楽を手掛けた映画「シェルブールの雨傘」の日本公開時に、解説者として淀川⻑治さんを迎えて開催された試写会で、小海智子さんとともに主題歌を歌う。
 

1965年(昭和40年)[26歳]

 岸洋子さんの推薦でキングレコードからデビュー。歌手名は本名の山崎の ”﨑” を ”崎”、”一” を ”肇” に変え、”やまさき” と濁音なしの送り仮名を添えた。(以降は「やまざき」に戻す)永田文夫さんら著名な作詞家が肇さんのために訳詞を書き下ろす。
 キングレコードから発売されたシングル盤は以下の4枚8曲。
 1965/9/1 消え去りし友(エンリコ・マシアス)/頭に一杯太陽を(イヴ・モンタン)
 1965/11/1 夜のメロディ(アダモ)/君はわが運命(シャルル・アズナヴール)
 1966/1/20 ひかり知らずに(エンリコ・マシアス)/鐘よ鳴れ(シャルル・トレネ)
 1966/10/1 愛のためいき/愛は燃えている(シャルル・アズナヴール)
 

● エピソード:最後のキングレコードでの作品「愛のためいき」
 1966年に日本で公開されたフランス映画「愛のためいき」のテーマ曲に日本語の歌詞が付けられ、山崎肇さんが歌った作品です。
 実はこのテーマ曲は日本市場向けだけのもので、曲そのものもフランスのものではなくイタリアのインストゥルメンタル曲で、「アルカトラスのギター」という曲名でした。この当時、ヨーロッパ映画を日本で公開する際、日本市場に適した音楽に差し替えてプロモーションすることは普通に行われていたことでした。実際、1965年に公開されたギリシャ映画「夜霧のしのび逢い」も、その映画とは全く関係のないクロード・チアリのギター演奏曲「浜辺 "La Playa"」がオープニングとエンドロールで使われ大ヒットしています。
 肇さんが、初めてシャンソンとは関係ない音楽ビジネスとして取り組んだ作品が、キングレコードとして最後の作品になった裏には、肇さんとしていろいろな思いが交錯していたことと思います。
 ちなみに、フランスでこの映画「愛のためいき"La Vie Conjugale"」が公開されたあと、主演したマリー=ジョゼ・ナット"Marie-Josée Nat"とジャック・シャリエ"Jacques Charrier"は、"La Vie Conjugale"というデュエット曲を発表していますが、それと肇さんの歌った曲は別物です。

 

1960年代後半

 パリ祭の司会者だった俳優/声優の藤村有弘さん(ひよっこりひょうたん島のドン・ガバチョの声などでも知られる。)から、アルフレッド・ハウゼ・オーケストラの司会を引き継ぐ。
 

1972年(昭和47年)[33歳]

 キョードー東京が主催する、レイモン・ルフェーヴル、ポール・モーリアといったフランスのポピュラー・オーケストラ来日公演の司会を引き受ける。当時のコンサートの司会者といえば、開幕前に舞台袖に立ってアーティストの経歴を紹介し、コンサートの終わり頃に出てきて「◯○から花束の贈呈です」としゃべる程度のものだったが、肇さんは、演奏曲のエピソード・トークやインタビューにジョークを交えた、お客を楽しませる新しい司会者のスタイルを確立させた。
 

●エピソード:新しい、司会スタイルの確立
 ある時、ポール・モーリアのコンサートでのこと。長い日本語の台詞を覚えてきてコンサートの合間に観客に語りけていたポール・モーリアが、しゃべる言葉を忘れてしまったことがありました。「アジメ!」そう呼ばれるや舞台に飛び出した肇さんは、そんなこともあろうかとポール・モーリアが話すべきことばを全て覚えていて、スラスラと喋ってその場をしのいだといいます。コンサートが終わり、ポール・モーリアはこう語ったそうです。「私より日本語がうまい人がいるにも関わらず私が喋るのはおろかなことだ。」以降、曲の合間にフランス語でアーティストたちと交流したり、演奏曲のエピソードを紹介したり、ジョークでお客さまの気持ちを切り替える、といった肇さん独自の司会者のスタイルが確立していくことになります。

 
 肇さんはコンサートツアー中、30名ものフランス人アーティストたちの「通訳」兼「オフの日の観光ガイド & 日本文化の伝導者」兼「(やんちゃなアーティストたちの)生活指導員」として、約1ヶ月〜2ヶ月半の期間、年に2回から3回、彼らと行動を共にしていた。
  

●エピソード:ポール・モーリアの帰りを待ち続けてトーク・ショー
 ある地方都市の公演でのことです。ポール・モーリアのコンサートが始まり舞台袖で観ていた肇さんのところにホールの責任者らしき人が寄ってきました。そして告げられたのは「爆弾がしかけられたとの電話があった。」という言葉。その方といくらか言葉を交わしたあと舞台に出て、ポール・モーリアにそのことを告げた肇さん。するとポール・モーリアは急いで楽屋に奥さんを確認しに退場したといいます。残された肇さん。ザワつくお客さまに向かって「どうも、このホールに爆弾をしかけた、という連絡が入ったそうでございます。爆破予定時刻は…」ここで、一旦腕時計を確認し、一呼吸置いて「すでに過ぎております。もう大丈夫でございます。」と来場者を安心させ、トークを始めたそうです。一方のポール・モーリアは、楽屋に戻ったものの奥さんがいないので大慌てしホールを出て探し回り、やっとのことでお茶をしていた奥さんを見つけ出し、ほっと一安心してステージに戻ってきました。演奏は無事再開されたのですが、それまでの間、肇さんはお客さまを不安がらせないようにするため、そしてポール・モーリアのコンサートに対する熱気や期待を維持するため、本人がいつ帰ってくるかわからない中、30分間もずっとお客さまに向かってトークを繰り広げていたといいます。

 
 また、コンサートの終演後に楽屋口に集まるアーティストのファンから通訳を快く引き受けているうちに山崎肇さん自身の人気も高まり、そういったファンから結婚式の司会をお願いされたり、ファンの親睦旅行などに誘われたりする機会が増える。若い女性に人気だったリチャード・クレイダーマンのステージでは、「このおじさんだれ?」みたいだった客席が、憧れのプリンスであるクレイダーマンに流暢なフランス語でインタビューするやいなや、会場の空気(肇さんを見る目)がガラリと変わった(本人談)という。
 

●エピソード:「ラブサウンズ」ブームの影の立役者、山崎肇さん
 ラジオの深夜放送が若者たちに浸透し、当時流行ったリクエスト曲をかける番組で、カーペンターズのようなヴォーカル・アーティストに混じって「オリーブの首飾り」「涙のトッカータ」「哀しみの終わりに」といったイージー・リスニングの曲のリクエストが多く寄せられるようになり、フランスのオーケストラを中心とした「ラブ・サウンズ」のブームは昭和50年代にピークを迎えます。ポール・モーリアがワインやコーヒーのCMに出たこともありましたし、FMラジオではポール・モーリアやレイモン・ルフェーヴル、カラベリといったオーケストラのライヴ中継がおこなわれ、さらにポール・モーリアのファン・クラブの会員数も1万人に達しました。このような現象が起こったのも、山崎肇さんがファンとアーティストとの距離を縮めてくれるような司会をされたこと、そして、楽屋口などでファンとアーティストとの結びつきを強固にしたことが大きく影響していたと思います。

 

1981年[42歳]

 ポール・モーリアやレイモン・ルフェーヴルからヴァカンス・シーズンに南フランスにある別荘に招かれるようになりフランス人アーティストとの交流が深まる。このあたりの内容は「シャンソン歌手はスパゲティを食わない」に詳しい。
 フランスに1ヶ月も生活して、日常的なフランス語を交わし、いろいろな街に旅行してフランス各地の文化に接したことで、「なぜこの歌詞が、同じ意味なのにこっちの単語を使っているのか。」といった、フランス語の細かいニュアンスや表現の違いを肌身で理解できるようになり、それが肇さんの歌に奥深さを与えていたのだと思われる。
 

1989年(平成元年)[50歳](フランス革命200年)

 レイモン・ルフェーヴルの公演で「バラ色の人生」を熱唱。このことが歌手活動を本格的に再開するきっかけに。
 

1990年代〜2000年代

 本格的に歌手活動を再開。新橋にあるシャンソニエ「シャミオール」などを拠点に活動開始。毎回 70 名近い参加者の中、トークを交えた2時間のステージがおこなれ、常に何曲かは新曲が用意され、歌詞を見ながら歌うことはしなかった。
 その他、銀座の「蛙たち」、神楽坂の「オ・シャンゼリゼ」、自由が丘の「ラ・マンダ」、名古屋の「エルム」、札幌の「銀巴里」など各シャンソニエからもお声がかかり歌を披露。
 

2000年(平成12年)[61歳]

  米国のオーケストラ・リーダー、ペリー・ラマルカの編曲で「愛のために死す」「人々の言うように」を録音。中国でも発売された。
 

2001年(平成13年)[62歳]

 ミシェル・ルグランの来日公演で司会を務める。これでフランスのポピュラー・オーケストラの司会コンプリートとなる。モーリアからもルフェーヴルからも「あいつは音楽家の中でも別格」と言われていたルグランと仕事ができたことを喜ぶ。
 

2002年(平成14年)[63歳]

 エッセイ本「シャンソン歌手はスパゲッティを食わない」を早稲田出版から発売。これを読んだ石井好子さんは「シャンソン歌手100人のキャリアを全て足しても、あなた一人にかなわないでしょう。」と評した。
 この年、シャンソン教室を開講。
 

2005年(平成17年)3月[66歳]

 シャンソン教室の生徒さんたち「レ・ザンファン・テリーブル」の発表会を開催。以降、銀座のヤマハスジオなどで定期的に開催するようになる。
 「レ・ザンファン・テリーブル "Les Enfants Terribles(恐るべき子供達)"」は、もちろんジャン・コクトーによる小説のタイトルから拝借したもの。
 

2006年(平成18年)12月19日[67歳]

 腰痛(病名は脊椎管狭窄症)で年明けまで入院。
 

2010年3月7日(平成22年)[71歳]

 TBSラジオの「爆笑問題の日曜サンデー」に出演。同じくゲストのマギー審司とともにポール・ モーリアを語る。
 

2011年(平成23年)[72歳]

 新宿の朝日カルチャーセンターにて日本語歌唱のシャンソン教室を開講。2019年9月まで続く。
 

2012年(平成24年)7月[73歳]

 レイモン・ルフェーヴルのオーケストラでキーボード奏者を努めたパトリス・ペリエラスの編曲でフランスのリモージュにてアルバムを制作。2016年には2枚目の制作をおこなう。パトリス・ペリエラスは、日本とも縁が深く、劇団四季のミュージカル「壁抜け男」の音楽アドバイザー(作曲はミシェル・ルグラン)や、富士急ハイランドのドドンパの音楽提供など、幅広く活動している。
 

2013年(平成25年)[74歳]

 ポール・モーリア・オーケストラのホルン奏者、ジャン・ジャック・ジュスタフレが結成したオーケストラの来日公演で司会を務める。
 

2017年(平成29年)[78歳]

 5月に脳梗塞発症、7月に膵臓の手術。12月からは、暁星学園OB対象に開講されたフランス語講座に通い始める。
 

2018年(平成30年)[79歳]

 2月に胆管炎で入院。
 

2019年(令和元年)[80歳]

 前立腺肥大の手術で入院。退院直前に再度、脳梗塞を患う。4⽉、ポール・モーリアのオーケストラでギター奏者だったジェラール・ニオベが奥様のご実家がある静岡県島田市で開催したコンサートで司会を務め数曲を歌う。
 

2020年(令和2年)[81歳]

 10月初旬、肺に水が入ったことで緊急入院。
 

2021年(令和3年)1月12日[82歳]

 多くの友人たちが待つ新しいステージに向けて旅立つ。