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シャンソン(フランスの歌)とフランス語

 
ボクがシャンソンを唄ってデビューしたのは1963年。素人同然で右も左も分からないような状態だったがチャンスに恵まれ、「兵隊が戦争に行くとき」と「エルザの瞳」をフランス語で唄い、あらゆるオーディションに合格した。当時シャンソンはフランス語で唄うのが理想であり常識だったように覚えている。
 少数意見で、日本語で唄わないとお客に分からないという、有名な詩人や評論家達とも、若輩ながら大いに議論したが、多くの歌手が歌の半分をフランス語で唄っていた。もちろん、フランス語のフの字も勉強しようとしない間抜けな歌手も大勢いた。
 それから永い時間がたって、司会をしていたボクが日本のシャンソンの世界に戻ってみると、昔の香り高いパリの雰囲気を追い求めた情熱は消え失せ、日本語の訳詞によるシャンソンが幅を利かせていた。
 訳詞も良いものはいいのだが、中には全く意味が違ってしまった訳や、メロディーに詩がはまっていない歌などが恥じらいもなく唄われ、これは無法地帯だと怒りを感じていた。
 フランス語を全く理解せず、C・Dの直訳などを頼りに訳詞を作る人も多いらしいが、直訳自体にもう、訳者の主観が入ってしまうことがあり、全てが正確とはいえない。
 フランス語の日常会話には困らないボクがシャンソンの詩を見て、辞書を片手に悪戦苦闘するのはしばしばだし、全くわからない場合も大いにある。
 魔法を解くような推理力を必要とし、分からず悶々とし、フランス人に尋ねて悩みが解消し、隠された詩情が理解できると、「お見事!」と詩人の労をねぎらってしまう。しばしば深読みしすぎて「そんなに難しく考えることはありませんよ」など意見される。
 簡単な言葉でありながらも美しい詩を見て、このままの意味を日本語にするのは不可能だと嘆息することも多い。風俗習慣、考え方、全ての発想が違うのだから当たり前だが、自分で訳詞に挑戦すると、凄く難しい。
 「恋心」を訳詞した永田文夫さんは、「ボクは自分の訳詩を唄ってくれる人に、元の詩も必ず読むようにお願いしてます」といっていたが、日本訳を唄いながらオリジナルの詩を理解している人がどのぐらいいる
だろうか。
 何はともあれ、数十年も業界にいながら、「今日はケツが痛い」。これぐらいもフランス語で言えないシャンソン歌手がいるのには驚く。
 昔は考えられなかった学校でのイジメによる自殺、若年層の凶悪犯罪が多くなったが、これらは、フランス語でシャンソンを唄わない歌手が増えたことと、因果関係があるのではないかと疑っている。
 このような意見はどう考えても、自分がフランス語を勉強するのが面倒だから、責任を転嫁してしまえという高級な考え方としか思えない。中国や韓国が「日本の首相が靖国に行くのはけしからん」という論理に似ている。
 「シャンソンは日本語で唄わなければいけない」という、堂々たる意見もあるらしい。フランスの歌、シャンソンを唄うのにフランス語を無視できるというのは、凄い才能ではないかと思う。常識的考えの持ち主には、こんな天才的発想はとても浮かばない。
 すると、来日するシャルル・アズナヴールは、日本語で唄わなければいけないのだろうか。誰か手紙を書いてほしい。
 「あのねアズナヴールさん、日本ではフランス語で唄うとわからないからダメなのよ。全レパートリー日本語で唄って下さい」ってね。
 「でもね、フランス語で唄うんだったら、ヤマザキハジメを司会に頼めば、悩みはすべて解決さ」、と付け加えてくれればとても親切だと思う。
 小野リサの比較的新しいアルバム「私の島」の中で、多くのシャンソンをボサノバ系で、見事なフランス語の発音とフィーリングで唄っているが、こういうのも、ダメなんだろうか。
 「枯葉」を唄うとき、フランス語の歌詞と日本語の訳詞を両方を理解し、あらためて日本語訳を選ぶならわかるが、片方しかわからず「日本語だ、日本語だ」叫ぶのは、あまりスマートではない。
 金正日と話をしているなら「しょうーがねーなー」とへこめるが、友人同士でもコレだから参る。
 みんなで赤信号を渡っているので、誰も恥じらいを感じないのだろう。
 ため息が出るような美しい詩や、明日の活力を与えてくれるような詩が韻を踏んでメロディーに寄り添う響きは、シャンソンが好きな人なら誰でも虜になるだろうし、フランス語の発音の優雅さも魅力なのだが、ダメなんだろうか。
 あーだこーだと言いながらも、フランス語だけで唄うのは少し気が引けている。
 そこで初老の美男子に似合う、いい訳詞が合ったら教えてほしいと思う。
 いい加減な事を書いてはいけないと、初老って何才のことだろうと広辞苑で調べてみると、40才と書いてあった。これはビックリ。では《中老》と引くと、50才ぐらい。では《大老》はと引いてみると、賢者でなければならないらしい。どこにも身を置く場所がなくて困ってしまう。
 自分のレパートリーにも訳詞の歌は少なからずある。
 昔、キングレコード時代に、永田さんがボクの為に作った「愛は燃えている」は、元詩に忠実でいい出来だと思い、年齢にはふさわしくないが今でも冬には唄っている。最近亡くなった奥地さんの「リラ駅の切符切り」も、工藤勉さんの「サクランボの実る頃」も見事なものだと思う。
 二年ほど前から大勢の皆様の助けによって、主にフランス語で唄うシャンソンの教室を開いている。発音だけに気を使いすぎると、歌が持っている魅力を損ないかねないので、発音は二の次でも、いい感じの歌を唄ってもらいたいと、フランス音楽の最高峰たちと過ごして来た40年の経験を生かし、指導にあたっている。指導しているというより、一緒に楽しんでいる。
 一人の生徒が「ララバイ・オブ・バードランド」を習って唄い、「先生、フランス語で唄う事がこんなに楽しいとは思わなかった」といってくれたときは天にも昇る心地だった。 
 くどいようだが、韻を踏んでいる詩はメロディーと触れ合って、例え一言一言の意味が分からずとも、《歌う方にも聴く方にも》心地よさが感じられるのだ。
 蛇足だが、シャンソンは日本で考えられてるものと大分違う。
 「Lullaby of Birdland」も「September song」も「Stardust」や「Those foolish
 shing」もフランス語の歌詞が作られ唄われている。(お望みの方がいたら無料でおわけする)「オー・シャンゼリゼ」がイギリスの歌で、「マイ・ウエイ」がフラン スの歌なのはご存知の通りだ。 
 ジャズとシャンソンも見事にコラボレートしている。
 5、6年前にアンリ・サルバドールが出したアルバム「Chambre Avec Vue」は、フランスで100万枚の大ヒットになったが、日本でこの中の曲を唄っているのは小野リサと、ほんの一握りのシャンソン歌手、我が教室の生徒だけだと思う。
 音楽に新しいものへの挑戦、情熱がなくなると、それはただの音であり失われて行く文化の足音になってしまう。
 「なら枯葉どうするんだ。ずいぶん古いじゃないか」といわれるかもしれないが、優れた感覚の人が新鮮な息吹で唄う限り、「枯葉」も「パリの空の下」も永遠に不滅なのだ。
 山形特産のおいしい果物「ラ・フランス」が、フランスから来たものではないように、日本語訳のシャンソンは、フランスとは、言葉以上につながりが切れている。
 その昔ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が武士の娘《節子》と結婚したとき、お互い母国語しか分からない二人の会話は英語と日本語だったが、やがて年月が解決し意思の疎通が出来るようになったそうだ。
 英語と日本語が混ざり合った言葉をクレオール言語といえるなら、日本のシャンソンはフランスのシャンソンと混じり合った新しい日本の文化なんだろう。
 なら、それはそれでいいか。
 多勢に無勢だからしかたがないか。
 でも最後にイタチの最後っペで、《フランス語を理解しない人が、『フランス語で唄ってはいけない』とはいわないで欲しいな》
 ボクもずいぶん生意気なことを言うようになったものだ。年のせいで頭がもうろうとしているのに本人に自覚がないせいだろう。
 それに半年を超える腰痛に悩まされ、歩く事さえままならないから行動の自由は半減され、反面、口先は衰えを知らず、長電話も多くなった。ごみために集まったカラスみたいにギャーギャーと叫んでいる。
 冒頭の「恐るべき子供達」のことだが
 今まで日本語でシャンソンを唄っていたアマチュアたちが好奇心に燃え、フランス語に挑戦し発表会を行う。ヨチヨチ歩きながら、偉大なる未来は常に第一歩からはじまる。
 そこで勇気ある人々を、ジャン・コクトーに習って《恐るべき子供たち》と名付けた。なぜなら多くのプロ歌手たちが出来なかったことをはじめたからだ。
 今回は三月に続いて第二回目。残念ながら会場が狭いため、出演者の友人にしか聴いて頂くことが出来ないが、近い将来の武道館公演を期待して欲しい。  
 寄付をしてくれたNPO法人RGSシャンソン研究会に御礼を申し上げます。